2014年3月2日 星期日

一百多年前,明治時代的日本海嘯災害照片~~

118年前,明治時代的海嘯災害照片~~
是說,日本這個國家保存資料的功力和態度,真的令人佩服~~~

http://www.japantimes.co.jp/news/2014/03/26/national/history/images-of-1896-sanriku-quake-found/#.VQVBLY6UeSo

http://photo.sankei.jp.msn.com/essay/data/2014/03/01meiji_sanriku/











1896(明治29)年6月15日夜に発生、2万人以上の死者を出した明治三陸地震の津波で、岩手県鍬ケ崎町(現・宮古市鍬ケ崎町)の被災状況を地元写真師が翌朝から撮影したネガ(ガラス乾板)13枚が盛岡地方気象台に残っていたことが28日までに分かった。この時代の災害を記録した写真のネガが見つかるのは非常に珍しく、118年前の生々しい被災状況がネガからの鮮明な写真でよみがえった。
 撮影したのは地元写真師「末崎仁平」。写真史に登場しない無名写真師ながら「技量は非常に高い」(古写真収集家の石黒敬章氏)と専門家は指摘、災害史、写真史の両面で貴重な資料だとしている。
 末崎についての詳しい資料はないが、岩手日報の前身の地元紙「岩手公報」や東京の「時事新報」に本人が出した当時の写真販売広告によると「鍬ケ崎上町」在住で、写真は「海嘯(津波のこと)翌朝当海岸ノ惨状ヲ撮影シタルモノ」とある。
 この津波では、当時の写真師が撮影した写真が他にもあるが、ネガは見つかっていない。末崎の写真は被災後、最も早い段階の撮影とみられる。
 写真自体は、不鮮明ながら、1974年に郷土史家の花坂蔵之助氏がまとめた「宮古史話」などに収録され、関係者に存在を知られていた。
 ネガからの鮮明な写真は、11日からの国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の企画展「歴史にみる震災」で展示される。(共同通信写真データ部)

■無名写真師「技量高い」 自身も被災しながら奮闘か
 見つかった明治三陸津波のネガについて、古写真収集家の石黒敬章氏は「プリントは残っても重いガラス乾板はほとんどが廃棄されてしまう。日本の報道写真の黎明期のネガは極めてめずらしく、災害史だけでなく、写真史の資料としてもとても貴重だ」と話す。
 鮮明なプリントを見た同氏は「構図、遠近表現など技量は非常に高く、現代の報道写真に通じるセンスがある。おそらく自身も被災しつつ、写真機と乾板をなんとか持ち出し走り回ったのでは」と無名写真師・末崎仁平の〝奮闘〟を評価した。
 末崎は写真説明で「親ハ子ノ屍ヲ潰家ノ下ニ尋ネ子ハ親ノ行衛ヲ叫ブ。惨ノ最モ酷ナルモノナリ」など被災者の目線から状況を痛切に伝えている。
 日本の報道写真の先駆けは1888年の福島県・磐梯山の噴火写真とされる。写真の方式が、その場で薬品を調合する湿板から乾板になり、写真師の機動性が増したことが背景にあるが、当初は写真の印刷の技術はなく、精密な版画に写し替えて新聞などに掲載された。日清戦争(94~95年)のころから印刷技術が普及、写真師や軍関係者が撮った戦場写真が雑誌などに載るようになった。
 96年の明治三陸津波では、前年に創刊された雑誌「太陽」の編集者で、写真師でもあった大橋乙羽ら20人以上の写真師が被災地入りしたことが岩手県の公文書などから分かっている。


■明治三陸津波■
 1896年6月15日午後7時半すぎに三陸海岸沖の日本海溝に沿った海域で発生した地震による大津波。地震の最大震度4程度だったとされるが、津波は地震発生から約3分で三陸沿岸を襲い、最大38.2mに達したとされる。岩手県を中心に死者は2万人以上、家屋流失など甚大な被害が出た。地震の規模をめぐってはマグニチュード(M)6.8~8.5まで研究者の間でも見解が分かれている。三陸では1933年の昭和三陸地震の際にも津波に襲われ、千人を超える死者が出ている。

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